随筆 リヨンにて(オルセイの黒猫.3)
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ブルーライン

パリからリヨンに向かう列車の中で、オレンジを一個むいた。みずみずしい香気が、暑く埃っぽいコンパートメントの中に緩やかに広がる。窓の外に流れる単調な麦畑と、その縁を彩る雛罌粟の深紅の色。時折現れる小さな村と、その中心にある教会の尖塔。今でもオレンジをむく時、一瞬にあの夏を思い出す。7月の澄んで乾いた空気と、重たい匂いを。
 TGVが未だ無かった頃で、リヨン行きの急行はディジョン、ボーヌ、マコンといった街を過ぎ、パリからひたすら南下した。フランスに到着して4日目、三ヶ月の語学研修のため、リヨンへ行くことになったのだった。フランス政府からの留学許可がぎりぎりになって下りたため、あわただしく日本を出発し、アラスカのアンカレッジを経由しておよそ20時間。最初にパリに降り立った時の違和感、街は美しくは見えなかった。急激な変化に体調が付いて行かなかったこともあって、パリに着いてから食べ物が全く口に合わなかった。これから何年かここで暮らすのかと思うと、目の前が暗くなる感じさえあった。やっと食べられたのがオムレツくらいだったから、果汁のほとばしるオレンジは本当に天からの恵みにさえ思えたのだ。オレンジは周辺の国々から時計回りに(だったか反時計回りにだったか)フランスへやってくるということを、リヨンで教わった。季節によってフランス産のオレンジが出回らなくなっても、他の地中海沿岸の国々、イタリア、ギリシャ、モロッコ、スペインといった国々から、季節の巡りと一緒に少しずつずれながら入って来るという話だった。鮮やかな色のオレンジが、未だ見も知らぬ地中海の地図の上を太陽と一緒に巡って行く。コンパートメントの中で、自分は日本のミカンをむくようなやり方で苦労しながらオレンジをむいた。しかし注意して見ていると、フランス人達は小さなナイフを使いながら一人一人違う作法でむくことに気づいた。そのやり方は10人いれば10人とも違う。オレンジの出自が違うように、彼らの出自も様々なのだ。
 リヨンでは他の数人の日本人留学生と共に、語学学校の研修寮に入っていた。思ってもみなかった3ヶ月の猶予。日本である程度フランス語は習っていたが、大学で生活するには不十分と見なされた訳だ。ただし言葉だけではなく、文化に馴染むための助走として貴重な時間だったように思う。リヨンはローヌとソーヌという2つの川の合流点にあって、一本になった川はローヌの名で地中海側へ流れて行く。ラグドナムという古名から分かる通りローマ時代に既にあった街で、川の対岸に急な丘がそびえ、細く入り組んだ旧市街が斜面に張り付くように広がっている。フールヴィエールと呼ばれるその丘の上にノートル・ダム寺院があり、金色のマリア(即ちノートル・ダム)像が屋根の上にすっくと立っている。3ヶ月の間、自分の部屋の窓からこの像を毎日遠望しながら過ごしていた。自分にも何かの加護があったのだろうか。

 その年(1973年)、石油ショックから始まる経済危機が世界を駆け巡っていた。いつの時代にもあり得ることだろうが、不意打ちをするスピードは速くなっているように思える。パリの銀行で日本からの送金を受け取る時には、その価値がいきなり何割も下がって青くなった。フランスで、特にリヨンで、その当時話題になっていたのがLIPという時計産業の破綻と、それに伴う大量の失業者のことだった。LIPはスイス国境に近いブザンソンという街に立脚した企業だったが、ブザンソンはリヨンからも近く、この地域の中心地であるリヨンにもその消失は大きな影響を及ぼしたと見られる。当時の文脈からすると、LIPが傾き破綻にまで追い込まれたのは、日本の時計の爆発的な流入がその原因、遠因とされているように思えた。語学学校の教師達がそんなことを口にするはずもないが、時計に限らず自動車、電子製品など、日本の技術進出に対するいらだちの雰囲気は、漠然とながら様々な場所で感じ取ることが出来た。実際には時計はアナログの時代からデジタル表示に変わりつつあり、精密機械であるより電子製品であるような時代に変化しつつあったから、これは日本の進出云々ということよりも、当地の精密機械の技術に問題があったということなのだが、一般のレベルではそれを認識するのは難しかったのだろう。同様なことは現在、自動車産業にも起こりつつある。
 考えてみれば古くから欧米への留学は、日本より進んだ技術なり学問なりを習得するためになされてきたので、一部の分野にせよこのように彼我の立場が逆転するような移り変わりの時代に彼の地に赴くというのは、これまでになかった状況設定に違いない。大学の研究者のレベルでは日本の技術の優秀性は既に認識をされていたから、それなりの扱いを受けたが、一般レベルではなかなかそれを認めるところまで十分にはいっていない雰囲気であったと思う。スイス方面へ行く列車のコンパートメントで乗り合わせた人から、日本の技術に関する疑問、クレームを聞かされたこともある。無論、技術分野においてもフランスが当時から優れている分野がいくつもあり、また理論を構築するような仕事では我々が足元に及ばない存在が多数いたのだから(これは現在も変わらない)、フランスで、ヨーロッパで学ぶ理由が薄れたということでは決してない。むしろ具体的なことよりも彼らの考え方、感じ方、物事に対する処し方等を深く感得することが何よりも大事だということが、却って明確になってきたと言うべきなのだろう。世界のあり方は加速してきているから、互いに影響を与え合う状況はますます複雑になってきている。

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何度かの経済的危機を挟んで長い間苦しんだフランスは、変わってきている。留学を終えた後、何度か彼我の間を往復することでそれを感じることが出来た。あのブザンソンの街もLIPの破綻に始まった危機の後、地域の大学・研究所を中心にして精密機械技術を梃子に新産業を根付かせる努力をし、それが実りつつあると感じられた。ブザンソンを州都とするフランシュ・コンテ地方は、各地に先端研究・技術開発の拠点を作るというフランス版COE構想に乗り、ナノ・テクノロジーやメカトロニクスの分野でその存在を伸ばしつつある。構想の中心にあるブザンソンのグラン・ゼコールでは百数十名の博士課程学生、百数十名の研究員を抱え、日本、アメリカ、ドイツを含めた国々との交流を通じて活発な息吹を感じることが出来る。
'06年の国際会議の折、このグラン・ゼコールを訪ねた時、日本で言えば建物の一階のロビーに当たるような場所で、学生の試験が行われていた。6月だったから、学期末の定期試験のようなものだったのだろう。日本のように整然と机が一方向に並んでいる訳ではなく、割合バラバラな向きにテーブルに各自勝手にゆったりと座って、しかし真剣な表情で問題に向かっている。試験官らしい人物が手持ちぶさたな顔で彼らの間を回っているが、学生達は特に気にしたり気を散らされたりする風でもない。ノートや参考書を自由に机の上に広げているようだったが、ただかなり長時間をかけて問題に取り組んでいる様子が伺えた。どんな問題を出されているのか知りたかったけれども、見ることはさすがにかなわなかった。
 現在、このブザンソンのグラン・ゼコールの学生を受け入れ、面倒を見る機会を持っているが、彼らは非常に優秀である。これはフランスの伝統であろうか、特に数学の能力が優れていると感じられ、聞いてみると日本の大学で教わる倍の時間を数学に費やしている。実際に直面する工学的な問題を、応用として解析してゆく能力に長けていると感じることが多く、日本の学生の弱点を如実に見せつけられる。もう一つ、英語を話すことに関し、現在のフランスの学生はかなり流ちょうに英語を話しかつ書く。これも経済的な危機の後、フランスが変わったことの一つではなかろうか。70年代のフランスで生活していた頃、大学内ではある程度英語は通じたが、大学院レベルの学生達でもそれほど話せる様子はなかった。街に出ればまして、ほとんど通じないと言ってよかった。よく言われていた話で、フランス人は本当は英語は話せるのに、外国人に聞かれてもわざと英語は話さないのだというものがあったが、あれはたぶん間違いであろうと思っている。当時、彼らは本当に英語が出来なかったのだ。教育のせいなのか、フランス人の自尊心のせいなのかは分からないが。それが現在では大きく変わってきている。自分がフランスにいた頃の同僚の一人が、割合最近日本に一年間滞在していたことがあり、彼が自分の8才くらいの娘に、これからは英語が出来なければだめだと諭しているのを見たことがある。また最近ではある国際会議で、著名な年配の教授が下手な英語でスピーチするのを聞いて、その教授の若い学生達が赤面して笑いをこらえている姿もあった。街の中でも明らかに様子は変わってきている。「英語帝国主義」とは、否が応でも折り合いをつけなければならないということであろう。自分の印象では、ドイツ人が母語以外の言語を最もうまく話すように思える。ラテン系の国々の人たちは余りうまくない(勿論、平均として)というように感じるがどんなものだろうか。
 先ほどのブザンソンのグラン・ゼコールで垣間見た学生達の試験は、我々が2時間ほどの会議を終えて戻ってきた時も、未だ終わっていなかった。
 ブザンソンはかつてのLIPの街であると同時に、著名な音楽祭の開かれる街でもある。そのコンクールで若い小沢征爾が一躍名をあげたのは、自分がリヨンに着いた数年前の夏のことであった。グラン・ゼコールでの訪問の帰りに乗ったタクシーの老運転手は、珍しくもバッハの曲をかけていた。そして落ち着いた口調で話しかけてきた。
 「30何年か前のここの音楽祭で、セイジ・オザワが賞を取ったんだよ。」

                              (続く)

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