兎平家(ウサギヘイケ)
 1/2
ブルーライン

 ことことこと。と、太郎は台所で鯵の甘酢和えを作っていた。夏来る前の夜は涼しく、外の垣根に忍冬が匂っている。
 「今日のはごく良い鯵だ。背の光り方が違う。」
 魚の包まれていた籠をひっくり返して、産地を見てみる。研ぎ澄ました包丁で魚を三枚におろし、しばらく酒に浸しておく。酢と酒と砂糖を取り出して、甘酢を用意する。酢がつんと来て、太郎は鼻の頭を押さえた。その間に大根と人参をざくりと切り、次にそぼろのあん作りにかかった。
 「酒の肴にはもう一品欲しいか。」
 山芋を千切りにして、鯛の酒盗をまぶしかけてみる。煮物の湯気が立ち上がる頃、冷えた酒を取り出し、二合ほどを織部の片口に移した。
 「さて、これであらかた出来た。」
 卓の上には肴三品と吟醸『良夜』。片口から盃に注がれた酒が香り立ち、太郎はほっと息をついて前を見た。するとこんなことが起きた。
 卓の前、太郎の向かい側の椅子に、いつの間にか白い兎が座っている。盃を持ち上げた手を止めたまま、太郎は兎を見た。
 「何でここに?」
 窓の外で、ソヨゴの葉がさらさらと鳴っている。裏手に広がる竹林も、一緒に鳴っているかも知れない。もう一度太郎はつぶやいた。
 「何でここに兎が?」
 このあたりは山奥でもないが、家の立て込んだ場所でもない。兎が出てきたとしても、さほどおかしくはない。それにしても兎は悪びれた様子もなく、目の前に座っている。そして小さな赤い目を据えて、こう言った。
 「この酒は百年に一度、天上に実る米から作られるものだよ。」
 何か言わないと悪いとでも思ったのだろうか。
 「瓶のラベルを見てごらん。」
 太郎は何か腑に落ちなかった。
 「いや、そんなはずはない。これは近くの酒屋で買ってきただけなのだから。天上の酒だなどと、大げさな。」
 それでも太郎がラベルに目をこらしてみると、
  ・・・神々の田にて刈られた米と、天の川の水とから成る
と本当に、小さく細かい字で書いてある。
  ・・・酒精分15%
 いや、本当に腑に落ちないのはそのことではない。
 「で、何でおまえがここにいるのだ。」
 初めて太郎は、兎に問いかけた。兎は鼻をひくつかせ、赤い目をしばたいた。
 「困っているのだな。」
 太郎がそう考えたとき、急に兎は椅子に立ち上がり、卓に前足をかけた。そして兎平家(うさぎへいけ)を語り出した。甲高い声で、こんなふうに。
TOP

 昔、都に兎の大納言在りけり

 こういったことというのは、しばしばあることだろうか。飲もうとした盃の手を止めたまま、先ほどから太郎は考えていた。目の前の兎は、とつとつと語っている。竹林の方から、琵琶の奏のように低い音が流れてくる。我に返って盃を口に含むと、香りが広がる。 「ああ、天上にいるようだ。」
少しの間、兎の話を聞いてみようか。

治承4年、白尾の大納言の反乱から話は始まる。
 平家一門、中でも平 清白(たいらのきよしろ)の横暴な振る舞いに怒りを押さえつけ られなかった兎の大納言は、何人かの中間と語らい、平家一門に反旗をひるがえした。しかし戦いは利あらず、大納言は中間ともども捕らえられ、いずれも鬼の住む島へと流されてしまう。その後も源(みなもと)の一族がたびたび小規模な抵抗を試みるが、どれも成功をしなかった。兎の平家一門は頭領の清白に続いて、忠白(ただしろ)、重白(しげしろ)、清耳(きよみみ)、忠跳(ただはね)と、次々に高い地位を得、平家以外の者達は唇をかみ目を赤くして悔しがるしかなかった。

 長い夜を通して、兎は語り続けた。正確に言えば、夜の8時頃から11時頃まで、太郎がゆっくりと酒を飲み、肴を食べている間だけ。裏の竹林を風の渡る音が、時折聞こえる。まだ青い竹の香りまで漂ってくるようだった。途中、太郎は盃を一度置いて考えた。
 「何故、平家なのだ。」
 すぐに分かったのか、兎は話を止めた。唇をもぞもぞ動かし、抗議するように、
 「だって、教科書にも出ていたでしょ。」
と、受験生みたいなことを言う。
 「確かに昔、ありけり、だな。自分は出来が良くなかったけれど。でも、それを言いたかったのではない。」
その時、目の前の卓の上に、小さな人形のような姿が降り立った。平 清白の装束で、顔は兎なのだが誰かに似ている気がする。厳しくて、昔恐れていた人の顔のようだった。それに続いて忠白、忠跳と、次々に小さな姿が降り立つ。広くもない卓の上が大きく深く伸び、彼らは兎の語りに合わせてゆったりと動いた。いくつかの顔は、自分の見知ったさらに別の顔に思える。
「おい、これはどうなっているんだ。」
兎は澄まして、
 「この世は短きものなれば、」
と、語り続ける。
 「人の姿ぞ、変わりける。」
 卓の上の空間は都のたたずまいとなり、また茫々とした海原となって、その間を小さな人形の姿が舞い踊る。音も声もせず、ただ兎の語りだけがたゆたうように続いた。そぼろあんかけの煮物は、あらかた片ずいた。山芋の方も。片口の酒は、底にまだ少し残っている。その日、兎は、大納言が鬼の島に足摺りしつつ空しく果てるまでを語った。そして太郎の勧めた酒を一口なめて、そろそろと退散した。卓の上の鬼の島は波間に消え、鯵の皿だけが取り残された。外では風がそうそうと吹いている。

TOP

ブルーライン
ここでご紹介した書籍に関するお問い合わせは,このメールアドレスでお願いいたします。
ブルーライン
このサイトの短編や随筆などの文章の著作権は、すべて浅岡鉄彦に帰属しております。無断複製・転載は、ご遠慮下さい。