ムクドリの日々
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ブルーライン

 こうして十日ほどの間、茂一は毎日公園に通った。もっぱらベンチと対話するために。家人は何も言わない。目立たなければよいと思っているらしい。茂一はある日、ベンチ自身のことを聞いていない気がして、尋ねた。
 「おまえの来し方はどうなのだ。」
 思いがけなかったのか、ベンチはもじもじしたように見えた。
 「いや、私になんか、何もありませんよ。少しも動いていないし、どこにも属していないんですから。」
 それでもしばらくしてから、こんなことを話した。
 「確かに、いろいろな人がここに座って思索してゆきましたから、それは私には手に取るように分かるんです。でもそれよりも、私自身がどこから来たのかだけお話ししましょうか。」
 ベンチは見た通り、木と鉄から出来ている。だが、木は地球の表面で何百年も生きてきたし、鉄は地球の内部で何万年にもわたって眠ってきた。過ごしてきた時間がまるで違う、人間だけが世界を造っている訳ではない。茂一は考える、自分にはあとどれくらいの時間が残されているのだろう。こうしてベンチと対話している暇など無いのではなかろうか。いや、それともそんなことを考えるのは、全くちっぽけなことなのか。この世にはこうして陽だまりに座っている人たちが大勢いるのだろう、多分。
 ベンチは簡略に語った。木の細胞が長く生きていること、鉄の結晶が地中にいた時とは変わっていること、そして最後に工場で職人が丁寧に仕上げを施してくれたことを。
 「以上です。」
 それ以降、ベンチが自分のことを語ることはなかった。ただ人の話を聞くのが、自分の役割と考えているらしかった。
 茂一は朝起きると、何やら手持ちぶさたの気がして、毎日のように公園へふらりと出かける。家では家人が気を遣ってくれるが、それでも何かが物足りない。
 「自分には他にすることがたくさんあるはずなのだが。」
 木の葉の色が次第に濃くなってゆくのと一緒に、茂一の気持ちは少しずつふさぐようになっていった。分かっているという様子で、ベンチは茂一を迎える。
 「気にする必要はありませんよ。誰でも最初のうちはそうなんです。」
 そして、これまでに見てきた何人もの人たちのことを話した。たくさんの人が思索していった結果だろうか、ギリシャの賢人の言葉までささやいた。茂一には少しも覚えられなかったのだが。
 いつ頃からか、若い2人のカップルがベンチにやってくるようになっていた。その間しばらく、茂一の足は遠ざかった。
 「自分の専有でもないからな。」
 カップルはクヌギ木立の下で、長い時間を過ごした。ベンチが声を掛ける必要はなかっただろう。またある時には先に、年老いた婦人が座っていたこともある。上品な様子をしたその婦人は、白い手袋をし、膝に小さなカバンを置いて、泣いていた。見てはいけないものを見たと、足音をさせぬように茂一は公園を離れた。夏の暑い間、誰も座らぬベンチは真昼の陽の下で、物思いにふける様子で白く光っていた。

 ところがある日、いつも茂一が座る場所に、古タイヤがひとつ座っていた。ベンチの背に立てかけられていたのだが、まるで腕を広げて座る人のように見えたのだ。子供が遊んで、置き忘れていったものなのか。茂一は隣に座ってみたが、落ち着かなかった。
 「少しずつ、怪しい世界が近づいてきているのか。」
 次の日には、壊れた自転車がベンチに立てかけてあった。さらにその次には、不揃いのゴルフセット。日を追うにつれ、古いテレビや脚の折れた椅子、使えなくなったパソコンから割れかけた大きなテーブルまで、次々にベンチの周りに積み上げられるようになった。ベンチはすっかりそれらの廃棄物に囲まれ、姿も見えなくなっていった。茂一は急に怒りがこみ上げてきた。
 「これは何事だ。」
 たまたま小型の冷蔵庫を抱えて、廃棄物の山の横に置こうとしていた男に向かって、茂一は声を挙げた。
 「一体、何事だ。」
 男は横目で茂一をにらみながら、渋々それを持ち去った。茂一は公園の管理事務所にねじ込んだ。
 「あそこは、用の無くなったものの集まる場所ではないぞ。」
 「その通りです。」
 事務所の職員は、茂一を見て言った。茂一は何か居心地が悪かった。事務所はすぐに動いて、数日の間に廃棄物はすべて撤去された。元のようにすっきりとしたベンチは、茂一を座らせて礼を言った。
 「有り難う。おかげでまた陽が当たるようになってきました。」
 それから、気になることを言った。
 「でもね、私だって用を終わりになる時が来るはずですけれどね。」
 茂一は気持ちを測りかねて、言葉を発しなかった。
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 秋になってしばらくは平穏な日々が過ぎたが、ある日、いつもと異なるただならぬ空気が公園に満ちた。役人らしい人間が何人か、しきりに測量などしている。別の人間が、図面を見ながら指図をしていた。公園の入り口には、機械を積んだ車が止まっていた。関わらぬ素振りをしていたが、茂一は思い切って聞いてみた。
 「何が始まるのか。」
 役人らしい一人は答えた。
 「この公園を作り替える予定なんです。子供用の遊び場として。三年前からの計画です。」
 同じようにそばへ寄ってきた若い母親が、
 「そうなったら嬉しいわ、ね。」
と目を細め、手を引いていた子供にうなずいて見せた。子供は手を合わせた。
 「今あるものは全部取り払って、新しく作り直します。半年の予定です。と言っても、今ここにあるのはベンチくらいのものですけれど。」
 そのベンチに用があるのだ、と茂一は言いかけたが、役人は母親に説明をしながら向こうへ行ってしまった。
 子供のためというのなら、それも仕方はあるまい。しかし、ベンチも新しくなってしまうのだろうか。
 クヌギの木立も桜の木々も紅葉の盛りを迎え、あのベンチも華やいで見える。茂一はそれを見るのが辛かった。
 役所の仕事は確実だった。どちらでも良いことには手順がスムースに運ぶのだ。木立が葉を落としかける頃には、公園に工事道具が運び込まれ、土が掘り返され始めた。何日かの間にベンチは撤去され、コンクリートの礎石もなくなっていた。クヌギの木立も一部が切り払われて、すっかり殺風景になってしまった。茂一はもう公園には足を向けなかった。
 「あれがいなくなってしまったのなら、もう行く理由もない。」
 何日も家にこもり、家人からは不思議がられた。そうかと思うと急に外へ出て、見知らぬ場所を一日歩きまわったりした。
 「流離の歌」
 枯れ枝の目立つようになった通りを当てもなく歩きながら、茂一はつぶやいてみた。
 そう、そんなことを話したことがあった。
 「しかし、自分には歌うようなものが何もない。」
 それでも茂一は声を出した。自分でも何故そうなったのかは分からない。石畳の道を、ごろごろと荷車を曳いてゆくような声。少しずつ声は小さくなり、そのあと茂一は二度と歌わなかった。

 新しく生まれ変わった公園にはしゃれた形のベンチが置かれ、木馬や輪くぐりもやってきた。小さな噴水池さえ出来た。ベンチの周りにはいつも、若い親たちと小さな子供達が集まるようになっていた。茂一は公園には踏み入らず、遠くからそれを眺めた。公園の外から? あるいはもっと遠く高いところから、すべてが小さく見えるような気がした。
 公園の木々に再び緑が萌えだし、陽は伸びやかにまわっている。陽が落ちきる少し前、枝枝のそこかしこにたくさんのムクドリが集まってくる。鳥たちはその日のことを互いに報告し合うように、にぎやかに鳴き交わしている。
 「もうどこへ行く必要もないのだ。」
 茂一は明るい夕暮れ、ゆっくりと家へ戻って行った。家の近くまで来た時、何かの声が聞こえたように思った。
 「お帰り。」
 家人の声ではない、木でも鳥でもない、空と地平の中程からだった。
                      (了)
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